『胸を張って帰るぞ。』
ベスト8に終わった夏のインターハイ。
あの時は落ち込む部員を鼓舞する為にそう声を張り上げたものの、内心は悔しくて悔しくてたまらなかった。
インターハイでの優勝は彼のバスケ部主将としての存在意義と言っても過言ではなかったから尚更。
しかしそればかり悔やんでも居られない、冬の大会は直ぐそこまで迫っている。
敗退後の翌日からすぐに男子バスケ部は通常練習に戻っていた。
主将である彼が切り替えていかなければ他の部員は着いて来ないと、彼も練習中は普段と変わらず気丈に振る舞いより一層の練習に打ち込んでいた。
けれど・・・
ガツン、
彼の放ったシュートは重たい金属音を上げてゴールポストに跳ね除けられてしまった。
いつもならこのぐらいのシュートを外すような彼ではないのだが、彼の頭を占める光景に気を取られいつものようにシュートが決まってくれない。
「ちっ・・・」
もう夕日の差し込み始めた体育館には誰も居ない。
響くのはボールが床を跳ね上がる音だけで、彼の舌打ちは予想以上に大きく響いた。
自分自身に苛々する。
もっとああしておけば良かった、あそこはこうした方が上手くいったかもしれない、人に切り替えろと言いながらあの敗北から切り替えられないでいた。
しかも去年の悔しさまで胸に蘇ってきて、彼の心に重く圧し掛かる。
準々決勝敗退は力が及ばなかったからだと分かっている、現実はドラマのようにサクセスストーリーのようにはいかないと。
けれど彼を蝕む悔しさと後悔はなかなか消えてくれはしなくて、ますますゴールを狙う手元がぶれていく。
もっと練習しなければと思っているのにこの惨状・・・今日はもう諦めて帰るべきだろうか?
「先輩・・・」
「黄瀬か?」
そんなことを思い始めた時、体育館の入り口に見慣れた彼女の姿を見つけた。
『憧れてしまえば越えられない。』
ふらふら、勝手に動く足をそのままに彼女は何処へとも知れずに歩みを進めていた。
歩きながら脳裏に浮かび続けて消えてくれないのは昨日あった試合の事。
全力で挑んで、けれど負けてしまった昨日の試合。
みんな彼女を信じて最後まで戦った。
彼女もチームに支えられて最後まで戦った。
それでも力及ばすに負けた試合に誰も自分のせいだなんていわなかったけれど、それでもとても悔しかった。
そして、楽しかった中学の頃はもう取り戻せないのだと改めて思い知らされて・・・
中学の頃、憧れたあの姿ははるか遠く。
憧れを捨てて挑んでも、更に遠く手の届かない所にあって。
自分はまだまだだと思い知らされた。
もっと、もっと力を付けなければ、そして冬の大会に・・・
昨日酷使した足を念のためと病院に見せにいった帰り道、足にはまだ違和感があったけれど彼女の足は確かにある場所に向けて止まることは無い。
もう練習はとっくに終わっているだろうけれど、どうしてもボールに触れたかった。
練習できなくてもあのコートの上に立ちたかった。
そうすれば、少しはこの胸に澱のように溜まる気持ちが無くなってくれるかもしれないと期待して。
運動部に力を入れている海常高校は夏休みの夕方とはいえ構内にちらほらと練習している生徒の姿が見える。
運動場を横目に目指すのはバスケ部が使っている体育館。
いつもより随分着くのがゆっくりになってしまったが、一歩一歩階段を登っていく。
その途中、かすかに聞こえるボールが跳ねる音を彼女の耳は捉えた。
小さなその音は階段を上がると段々大きくなっていく。
もう、空は夕焼けに染まっているからきっとこんな時間まで残っているのは・・・
「先輩・・・」
「黄瀬か?」
やっぱり、思っていた彼の姿がそこにはあった。
「何で来たんだよ。」
彼女の姿を見た彼の第一声に確かにどうしてと思うだろう。
昨日、女子バスケの試合があったことと、その結果。
試合終了後、立てない程に疲労した彼女は今日は部活を休んでいると聞いている。
しかも彼の目から見ても分かるぐらいに彼女は立っていても辛そうで、足を引きずっているからきちんと休んで身体を大切にしろと言いたかった。
あんなに楽しそうにプレイしていたバスケが出来なくなったらどうするのだと。
けれど同時にどうしても勝ちたかったのだろう心境を思うと、いつものように先輩らしく彼女を叱りつけることが出来なかった。
彼も、彼女の気持ちが理解できるから尚更・・・
「えっと・・・」
しかし、足の不調を圧して学校に来てしまった彼女は彼のその質問に答えにくくて言い淀んでしまう。
どこまで彼に知られているのだろう。
彼の事だから彼女の足の事を知れば怒って彼女を帰そうとするだろうから。
いや、きっと彼は気付いているに違いない。
怒らないのはきっと彼がいつもよりずっと難しい顔をしていて、何か大きな悩みを抱えているのだろうということが分かるから。
それなのに心配そうな色を含ませて彼女の方を見てくるから、この先輩の懐の大きさに改めて驚かされてしまう。
「ちょっと、ボールに触りたくて・・・」
まっすぐに見つめてくる彼に黙りこくっていても埒が明かないとおずおずと口を開く。
「あ、でも今日は休みなんでちゃんと休みますよ?
だた・・・ちょっとここに居させて欲しいんスけど・・・」
駄目ですかね?といつもの彼女からは考えられない程控えめな懇願に彼の眉間に刻まれた皺が深くなる。
何か言いたげに瞳を揺らめかせている彼女を見ていると無性にもやもやしてくる。
何を溜め込んでいるのか知らないけれど、全て吐き出してしまえばいい。
「なんか言いたいことあんなら、言えよ・・・」
「え?」
「言えよ、誰も居ないし・・・」
自分の事を棚に上げて・・・と彼自身も理解しているのだが、こんな顔の彼女が横に居られたら集中できないではないかと言い訳をして、先輩の特権だと悩みなら聞いてやると言う。
しかしどうしてもバツが悪くてふっと彼女から目を逸らしてしまったので彼女の瞳が大きく見開かれたことを彼は知らない。
驚きと、それ以上に歓喜に染まっていく瞳を。
「昨日、負けちゃいました・・・」
やっぱり強かったです。そう消えそうな声で告げる彼女はきっと精一杯明るく言ったつもりなのだろう。
けれどへにゃり、とゆがんだ顔が上手く笑えてなんて居ないと丸分かりだ。
けれど、それは彼も同じであった。
部員の前では次を見据えて練習に励む姿を見せている彼と・・・
「俺も、負けたよ・・・」
「先輩?」
思いがけない彼の言葉に彼女は目を丸くする。
いつも黙々と練習に励む2学年年上の先輩である彼が彼女の前でそんなことを言うなんて・・・と。
部員の前に立って、彼らを引っ張っていく小柄だけれど大きな背中を持った彼しか知らなかった。
そんな彼が彼女の前で心のうちを少しだけだが見せてくれて嬉しいと思ってしまったなんてとても言えないけれど。
「けど・・・借りは冬に返す。」
力強い言葉と共に彼がぐっと突き出した拳。
それは彼の決意の表れと、そして彼女を励ます最大の敬意なのだろう。
ボールをしっかりと掴んで仲間にパスを出す彼の大きな手がとてもまぶしく見える。
彼女は彼と一緒のコートに立てることはないけれど、信頼する仲間として認めて貰えた様で彼女の中で今まで感じたことの無い気持ちが湧き上がってくる。
1人だけの才能で戦ってきた彼女に初めてチームというものを教えてくれた手におずおずと自分のそれを差し出す。
「・・・ハイ!!」
彼よりも一回り以上小さくて白く滑らかな彼女の拳がこつん、と触れた。
それと一緒に浮かんだあの時の笑顔は少し弱々しいけれど、さっきまでの顔よりずっとすがすがしかった。
負けるのはつらいけれど、それ以上に強くなればいい、彼も彼女も・・・
「座ってろ。
終わったら送ってやるから。」
「え、でも・・・」
休めと言われたのに勝手に学校に来てしまったのは彼女だから彼に迷惑なんてかけられないと言うのだが、彼の方も頑として譲ろうとしない。
しばらくお互い譲らずに睨み合いが続いたのだが、今日は彼女の方が折れることになる。
いつも厳しくて荒っぽいのに、こんな時は優しくしてくれるなんて泣きそうになって目の奥がつんと熱くなる。
「早く治せ。
そしたらまた1on1付き合えよ。」
「・・・先輩はズルイっス。」
「うっせ、お前がそんなだとバスケしても張り合いねーだろ!!」
ふい、と少し赤くなった頬を隠すように彼はゴールの方を向いて練習を始めてしまった。
こうなっては彼はもう話を聞いてはくれないだろう。
足の方も少ししんどくなってきたので近くにあったベンチに腰を下ろして彼のシュートを眺める。
基本通りの綺麗なフォームから放たれたボールは空中で弧を描き、ゴールに吸い込まれるようにまっすぐに落ちていった。
何度もシュートを繰り返す彼を穏やかな表情で眺めている彼女は知らないだろう、彼女が来るまで彼のシュートがこんな綺麗に決まらなかったことに。
二人以外には誰も居ない夕暮れの体育館。
ボールの跳ねる音だけが響いていた。
海常高校バスケ部に今年も新しい部員が加わってから早くも夏休みが過ぎ、二学期を迎えようとしていた。
夏の大会では男子も女子も優勝こそ逃したものの、双方共にベストに入る好成績を収め、次の冬の大会に向けて新たなスタートを切ったという所である。
あの春の日、あわや乱闘騒ぎになりかけた原因である新入部員も今ではすっかり部活の中に溶け込んで・・・
「センパーイ」
「あーもー聞こえてるからそんなに呼ぶんじゃねーよ!!」
ゴールの下でボールを弄びながら、早くバスケがしたいと言わんばかりにウズウズしながら身体を揺らしている1人の女子生徒が大きな声で彼を呼んでいる。
色素の薄い金色に光る綺麗な髪、バランスの取れた身体にすらりと長い両手足、運動をしているから今は化粧はしていないがそれでも大きな瞳と長いまつ毛を持った美少女こそ中学時代に無敵を誇った帝光中学バスケ部レギュラー、通称キセキの世代と名高い天才プレイヤー、黄瀬涼子であった。
その美貌でモデルの仕事もこなしている彼女はこの学校のみならず、他校にまでその名が知られた有名人である。
高校入学すぐぐらいは何やら不貞腐れていて可愛げもなにもあったものじゃなかったが、その不貞腐れていた原因がなくなったらしい今は、ただのバスケ馬鹿でしかなかった。
今も今日の練習を終えて部誌を書いている笠松に早く1on1をしろと急かしてくるその様子に彼女の頭には犬の耳と尻尾が生えているのが見えそうだと言ったのは誰だったか・・・
「センパーイ、まだっスかー!?」
「ちょっとぐらい待てねーのかお前はっ!」
そんな二人の様子に彼女の飼い主との称号を頂いてしまった男子バスケ部主将、笠松幸男であった。
しかしそんな彼も彼女に負けず劣らずのバスケ馬鹿である。
「ほら、相手してやらねーとは言ってねーだろ?」
ようやく書き終えた部誌を置いて彼女の呼ぶコートへ駆けてゆく後ろ姿は心なしか楽しそうだ。
くるくると遊んでいた彼女の手からいとも簡単にボールと奪うとそのままゴールに放り投げた。
「センパイっずるいっスよ!!」
「油断しているお前が悪い。」
「なにをー?」
そんな軽いやり取りは直ぐにシューズが床をすべる音とボールが跳ねる音に重なって聞こえなくなっていく。
そんな二人に他の部員はいつも不思議な視線を送るのだが、あいにくとボールに集中し始めた二人に届くことはなかった。
「あーもーまた負けたー」
「そー簡単に負けてたまるかアホ!!」
始めて二人でコートに立ったあの日からずっと・・・周りが呆れるぐらい二人で勝負を続けているが、飽きる様子もなく彼女は彼を誘うし、彼も文句を言いつつもその勝負を断ったことはない。
自分より強い相手と戦うことを楽しんで更なる成長を続ける彼女と、天才的なセンスで思いもよらないプレイをしてくる相手に追い抜かれまいと日々鍛錬を重ねている彼。
男女の違いゆえに体格や体力の差はどうしても生まれてしまうけれど、二人は良いプレイヤーとして相手を認め、ライバル関係と言っても差し支えない関係を築いていた。
しかしそれが周囲の人間にはおかしな光景に写っているのだ。
『二人は付き合ってるの?』
そう聞かれても不思議でないぐらい二人の距離は近く、親密な空気が漂っていた。
けれど・・・
「なわけねーだろ。」
「へ?そう見えるんスか?」
片方は馬鹿じゃないのかと、片方はふーんと興味なさげに言う。
他の部員はこの夏という高校生にとって大変貴重なイベントの多い時期を越えて彼氏彼女という関係になったものが何組か生まれている中、男女バスケ部が仲良くなるきっかけを作った当人たちに何もないとはどういうことだろうか。
しかし二人のこの反応の薄さを見て色々勘繰っていた部員たちは1人、また1人といなくなっていった。
けれどそんな二人であるが今日はいつもと違ったようで・・・
監督から課せられた練習も終わり、自主練習も切り上げた部員が1人、また1人と帰って行ってしまい今日も残ったのは最後まで白熱した1on1をしていたこの二人になっていた。
秋の色合いが濃くなってひんやりとした空気も漂い始めたこの季節、空は夕焼けを追いやってすっかり暗くなってしまっている。
他の部員の勘繰りを切り捨てた彼ではあるが、彼女は年頃の少女であると理解しているから暗い夜道を1人で帰すわけにはいかないと、いつの頃からか彼が彼女を途中まで送っていく習慣が生まれていた。
その為に二人で連れ立って下駄箱に靴を取りに戻ったのだけれど・・・
「おわっ!?」
バサバサ。
彼女が帰宅しようと靴箱を開けた瞬間、落ちてくるいくつかの封筒やプレゼントの包み紙。
まさかそんなものが入っているなんてドラマやアニメの世界でしかないと思っている彼は驚きの声を上げてしまった。
しかし当の彼女というと・・・
「あーあぁ」
「あぁってお前・・・」
モデルをやっているだけあって見た目も良く、負けず嫌いだけれど常に明るくて気さくな彼女は今では異性にとても人気があり更に同姓からの人気も高い学校のアイドル状態であった。
女子バスケ部での騒動を彼はこの目で見ているから一瞬信じられないと思ったこともあるが、試合の時にファンだという女子につかまってサインをねだられている所やプレゼントを貰っている所を見てからはあの荒んでいた一時だけだったのだろうと理解していた。
そんな彼女に送ってくれた貰い物だろう?嬉しくないのか?と聞いてみるが・・・
「いや、ファンレターとかは嬉しいんスけど、たまに不幸の手紙とか入ってたりするんで・・・
あと・・・ちょっとストーカーっぽいのとか・・・」
「オイ・・・これって・・・」
一緒になって床に散らばった手紙を拾ってやるが、そのうちのひとつに嫌な物を見つけてしまった。
いわゆるそういった行為の時につけるシロモノであるが・・・
「あー、たまに入ってますねぇ・・・
でもまだ可愛い方っスよ?」
それはちょっとどころの騒ぎではないもののような気がするのだが、当人は慣れた風に通学カバンの中に常備していたらしい折り畳みのトートバッグを出してそれらを放り込んでいく。
どうするのかと聞いたら、最近は一旦事務所の方に預けてそちらでチェックしてもらってから後でファンレターだけを貰うようになっているらしい。
まぁ事務所も妥当な判断だろう。
大切な自分の所のモデルに何かあっては困るのだから・・・
しかしなにやら彼の胸の中にモヤっとする気持ちが溜まっていくのが分かる。
苛々するようなムカムカするような変な感覚。
それは知らなかった芸能人の裏側を知って少し驚いているのだろうと結論付けて、自分も靴を履き替えてきて昇降口で待っていた彼女と並んで歩き出した。
「なぁ、そんな手紙ってどれぐらいあんの?」
「んー2割ぐらいっスかねぇ?
後の1割ぐらいが男子で、後は女の子ですよ?」
なんでもない風に聞いた問いかけの答えはこの前の服がよかったとか言う感想のファンレターが大半、しかしその中には確実に彼女への想いを綴った文が入っているという。
思ったより少ないぐらいだが、それでも誰か見知らぬ男が彼女に行為を向けているのだ。
そういった類も事務所で処分してしまえばいいのに・・・ちり、彼の中でなにか嫌な考えが浮かんでいった。
送った相手の気持ちだってあるだろうに・・・
しかしそういった手紙を貰っているのなら彼女にその気はないのだろうか?好意を向けられて嫌な気持ちにはなるまい。
そう思ってつい、口を付いて出てしまったその疑問。
「なぁ、そのうちの誰かと付き合いたいとか思ったことねーの?」
毎日のように遅くまでバスケをして家に帰り、休日もモデルの仕事が入っている多忙な彼女のそういった話題はまったく聞こえてこない。
こんなに好意を向けられているのだから言い方は悪いが相手は選り取り見取り、会ってみたら誰か1人ぐらい気の会う奴がいるかも知れないというのに・・・
「んー今はセンパイとバスケしてる方が楽しいっス!!」
「・・・そりゃどーも。」
彼女は暫く考え込んだ後、そう言うとだから明日も1on1しましょう、と笑顔で彼を見上げてくる。
あの日、彼女と始めてバスケをした日よりもずっと前から知っているあの笑顔で。
「・・・時間があったらな。」
キラキラしたその笑顔は彼が好ましいと思ったそれで、あの時も今も変わらずに彼女は輝いていた。
時折、その表情が曇る時もあるが、バスケが好きだと全身で主張している彼女は誰かが一度見せてくれた可愛い服を着て綺麗に化粧をされて雑誌の中から微笑んでいた彼女よりもずっと魅力的だと思う。
その笑顔に彼女は本当にバスケが好きなんだと分かるから、彼も手を抜かずに真剣に勝負をしている。
それはきっと、明日も明後日も明々後日もずっと・・・多分、彼が高校のバスケ部の活動を終えるまでずっと・・・
「あ、ここまでで大丈夫ですよ〜」
「ん?そうか?」
そこはいつも彼が彼女と別れる所。
いつの間にここに着いていたのだろう。
さっきの事実を知ってしまった今、彼女を一人で帰すのはどうかと思うが、彼女が大丈夫だという言葉を押してまで家まで送っていける立場に果たして自分はいるのだろうか。
彼にとって労力になってしまうそれは逆に彼女の負担になるかもしれない。
そう逡巡しているうちにまた明日、と言って彼女は彼に背を向けて去ってゆくのにあぁ、また明日と返し自分も岐路につく。
「また明日、な・・・」
彼女に釣られてそう返してしまったが、後何回この明日が来るのだろう。
夜の風は大分、冷たいと思うようになって来ている。
季節はもうじき秋、そして直ぐに冬が訪れる。
年末にあるこの年最後の大会、それが終われば彼の高校のバスケが終わってしまう。
そうすれば彼女とバスケをすることも無くなり、こうやって並んで帰ることも無くなる。
そう思うと何か、胸の辺りがスースーするような気持ち悪さを感じてしまった。
1人になった道のりを歩きながらぼんやりと考えるのはまだ、半年と少ししか過ぎていないのに随分と彼女が近くにいるこの状況に馴染んでしまったものだという事。
彼女がいなかった間の方がずっとずっと長かったのに・・・
それと同時に彼女とは不思議な関係だとも思った。
ただの後輩としては近すぎる距離に付き合っているのか問われたことは少なくない。
彼が気付いていないだけ・・・なんて言われるが、他人に自分の気持ちが分かるはずもないと思う。
いつも二人揃って違うと否定してきたし、本当に彼女との間には何も無いのだけれど、ならば彼女の中で笠松幸男という人物はいったいどういった地位に存在するのであろうか。
バスケ部の中では特別に懐かれていると思う。
夏のあの日、彼女の抱えていた弱さを彼に見せた時から特に、すっかり馴染んだ女子バスケ部のレギュラーと楽しく会話している時や、休み時間に廊下などですれ違った時でも彼を見つけると彼女は嬉しそうに笑って手を振ってくるようになった。
しかしその時はいつも今日も1on1をしようだの、今日こそ負けないだのというコメントがついてくるので結局はバスケ部の先輩という範疇なのだろう。
たまたま近くにいたクラスメイトはそのコメントと聞いて鈍いなぁと苦笑を漏らすばかりだが、本当に彼らが勘繰っている関係などこれっぽっちも見当たらなかった。
それに笠松の中でも黄瀬涼子という人物がどこにカテゴライズされているのか、彼はいまいち定められないままでいた。
女性は苦手だ、目を見ることすらハードルが高い。
しかし彼女に対しては普通に接することが出来るし、むしろ一緒にいて楽だとまで思ってしまう。
彼女に釣られて弱音を吐き出してしまったぐらいだ。
そして苦手だか女性が嫌いという訳ではないし、男女のそういった話題に興味がない訳でもないので同級生とのそういった話題も普通にしている。
けれど彼女とそういった関係になりたいのかと聞かれると返事はノーである。
そう考えると彼女は彼の中で女の子、というカテゴリーから外れるのだ。
そして彼女もきっと彼にそんなことは望んでいないだろう。
彼女の欲しい物はきっとモデルやキセキの世代を抜きにして自分とバスケをしてくれた部活の先輩だ。
現に彼女とはバスケを抜きにした付き合いをしたことがない。
何度か一緒に出かける約束をしたことはあるが、それは全部他校の試合を見学に行くというバスケ絡みの用事があってのこと。
だから余計に彼女をそういった対象として見ることがなくなっていく。
どうしても彼女との関係に名前をつけるのだとしたら・・・
「ま、手のかかる後輩なんだよな・・・」
純粋に自分を好いてくれる後輩は無条件に可愛いと思うものだ。
偶然、その中の1人が女子で、彼女だったというだけ・・・
だた、それだけ・・・
正直、今日の仕事は乗り気ではなかった。
男子バスケ部が練習試合ということで、体育館を明け渡すために女子バスケ部は休み。
休みだったので仕事を入れていいとマネージャーに言ってしまったのは自分だけれど、言わなければよかったと今彼女は絶賛後悔中だった。
女子は休みでも、男子バスケを応援するために何人かは学校に顔を出すという。
相手チームはなかなかの強豪校だったし、見ていてつまらない試合には決してならないだろうから女子選手とは言え学べるところも多いだろう。
それに試合が終われば彼らの練習に混ぜてもらえるかもしれない。
冬の大会までにす少しでも練習を積んでおきたいし、練習とはいえバスケをすることは楽しい。
女子とするのも楽しいが、男子と混じっての試合もいつもと違って楽しかったし、彼女が一番楽しみにしている男子バスケ部のキャプテンとの1on1は昨日も決着がつかずに持ち越しとなったので早く再戦したいと思っていた。
そう思うと今日の仕事は彼女にとっては憂鬱以外の何者でもない。
けれどそこはプロのモデルである。
最近バスケ漬けで仕事を減らして貰っているとはいえ、いざ衣装を着てカメラの前に立てば彼女はモデルの黄瀬涼子としてすいすいと仕事をこなしていった。
まだ少し汗ばむ季節ではあるが、今日は冬の新作モデルと最新のコーディネイト特集ページの仕事で、スタイリストさんが用意した何着かの衣装を着てそれに合わせたメイクとヘアをしての撮影。
写真撮影はいつも通りに滞りなく終わったのだけれど、問題はこの後に発生した。
「うーん何て書こう・・・」
彼女の目の前に置いてあるのはA4のコピー用紙が何枚か束になったもの。
そこに書かれている内容はよくある質問の類。
趣味とか好きな食べ物とか、オフの過ごし方とかいった良くある悪く言ってしまえば使い古されたような質問。
こんなの事務所のホームページに行けば載っているのに・・・とは思うがこれも大切な仕事なので文句を言わずにもくもくと項目を埋めてゆく。
しかし最後の質問で筆が止まってしまった。
「好きな異性のタイプって言われてもねぇ・・・」
この手の質問はよくあるのだが、よくある質問だけによく考えて答えなければならない。
ただ優しい人とか、一緒にいて楽しい人、だけじゃ個性がない他と被ると言われ、逆に詳しく具体的に書けば彼氏でもいるのかと突っ込みを入れられてしまう難しい質問なのだ。
うんうん唸ってみるが唸って良い考えが出るほど彼女は良い頭を持ってはいなかった。
「はぁ・・・バスケしたいっス・・・」
ちらり、頭を机に突っ伏したまま視線だけを壁にかけられた時計に移動させると針はもう3時を過ぎていた。
練習試合は朝一からやると聞いていたから試合はもう終わったと思うが、冬の大会で今度こそ優勝を狙う部員はきっとみんなまだ残って練習をしているのだろう。
特にあの自他共に厳しい主将はいっそう練習に励んでいるに違い無い。
そして応援にいった女子も目的は彼氏の応援だったとしても最後には一緒に混ざってバスケをしているのだろう。
きっとみんなちゃっかり着替えを持って学校に行っているはずだ。
今まで何回もそういったことをしてきたから男子部員も慣れたもので、女子と合同練習の時は何も言わずに手足に重りをつけるようになったのは何時からだろう。
そのお蔭で足腰が鍛えられたと男子のレギュラーが笑って言っていたのを思い出す。
女子も女子で自分たちより大きな男子と練習することで戦略や技術を磨く幅が広がったとみんなで笑いあっていた。
今、自分がその場にいないことがこんなに寂しいと思うなんて・・・随分と高校のバスケ部に馴染んだものだ。
「あ、そうか・・・」
そんなことをつらつら考えているとぴん、と良いアイデアが浮かび、それを忘れないうちに一番最後の質問の解答欄にそれを書き込んだ。
「うん、良い感じっスね!!」
最後に記入漏れがないかざっと確認して、我ながら自分らしい回答になったと自画自賛してしまった。
そしてさっさと散らばっていた筆記用具をカバンに片付けて帰り支度を整える。
マネージャーにはこれが終わったら帰って良いと許可を貰っているので、今から学校に急げばちょっとぐらい練習に混ぜてもらえるかもしれない。
それに、他の部員と一緒の練習には間に合わなくてもきっと彼はいると思う。
主将である彼はいつも誰よりも遅くまで練習をしているし、彼女が勝負したいと言えば付き合ってくれるだろう。
引き分けで終わった昨日の帰りに次はみてろよ、と言われたから絶対に断らないと確信している。
もしかしたら、と着替えを持ってきてよかった。
荷物は大きくかさばってしまったけれど、そのカバンを持って彼女はその日スタジオを後にした。
さて、そんな仕事があったこともすっかり忘れた頃。
季節は汗ばむどころか肌寒いぐらいの季節に移り変わっていた。
編集と印刷の終わった雑誌が一般の人の手に渡り、休憩中に彼女のチームメイトの1人がその雑誌を手に彼女のところまでやってきた。
この女子はいつも彼女の乗っている雑誌を買ってくれていて、彼女に色々と感想を言ってくれるとてもありがたい存在である。
今日も嬉々としてその雑誌と一緒にコンビにで買い込んできた新作のお菓子を持ってきた女子部員は他の部員と輪になってその雑誌を開くことになり、彼女もその輪の中に参加させてもらったのだが・・・
趣味:バスケ
休日の過ごし方:バスケの練習
あの日、うんうん唸りながら答えた質問は一番良い笑顔の写真の横で可愛らしいデザインの文字と色とりどりのふきだしで囲まれて印刷されていた。
その中でバスケの文字が出てくる頻度が多すぎるそのコメントにやっぱり涼子ちゃんはバスケ馬鹿だよね、と笑う部員にそうでしょう?と笑って返す。
我ながらバスケ一色のコメントになってしまったが、これが一番自分らしいと胸を張っていうことが出来たのはこの高校に入れたからに他ならない。
こうやってみんなでお菓子をつまみながら他愛のない話ができるようになるなんて入学当初は思いしなかった。
毎日退屈だと、中学の頃に帰りたいと思っていた日はずっと過去のこととなっていた。
その輪の中で朗らかに笑う彼女の周りではこの服が似合っているだの、この髪型はどうやるのだのと言ってみんな話に花を咲かせているこの時間をかみ締める。
しかし彼女のコメント欄にあった最後の質問を見た一人の女子部員が言った一言に周りは一斉に静まり返ってしまう。
『この一緒にバスケしてくれる人ってさ、笠松先輩だよね?』
というその一言によって・・・
「へ?」
思いもよらないコメントに変な声を漏らしてしまった。
最後の質問項目は好きな異性のタイプ。
そういえばそんなことを書いた気がする、と早くバスケをしたくてさっさと終わらせてしまった質問内容を今思い出した。
確かに少し前まではよく彼女と件の彼の関係を勘繰る人の多さにどうしたものかと思っていた時もあったが、二人してそんなことはないと言い続けていたらそれも自然と無くなり、もう頭の隅にすら置いていなかった小さな問題。
すっかり忘れていたその問題なのだが、周りはそう思ってくれていなかったようだ。
しかしキセキの世代と称されるほどの才能を持った彼女と張り合える彼は貴重な存在で、練習が終わってから毎日のようにバスケの相手をしてもらっていることも事実。
でも彼以外の部員もみんな一緒にバスケをしてくれていると思うのだけれど・・・
あっけに取られた顔のままでそう答えると彼女を囲んだ部員はくすくす笑ったり、もうちょっとかなぁなんて訳の分からないコメントを彼女へ送ってくれるだけだった。
「もーなんなんスかー!!」
本気での抗議も空しく、響くチャイムの音で自然とお開きになった女子の輪から彼女が欲しい答えが返ってくることはなかった。
まったく、訳が分からない。
最後まで残ってしまったせいか彼女しかいない部室で昼間のことを思い出してもやもやした気持ちになってしまう。
どうしてそう彼女と彼をくっつけたがるのだろうか。
さっきまでその彼と1on1をしていたがとういった空気はまったくもって感じられないというのに。
それに周りが囃し立てても、彼女自身にそういった気がなくては彼とそういった関係に発展することはない。
それはきっと彼の方も同じだろう。
彼の女子が苦手なエピソードは最早バスケ部では有名な話だ。
あぁ、と違う、だけで女子との会話を切り抜けてきたとか、目を合わせたらすぐにそらされてしまうだの、実際にこの目で見た事実もあって彼と恋愛云々が結びつかない。
それに彼女は彼に女子だと認められていないのは明白だ。
彼女とは普通に喋るし目を合わせたことも何度だってあるし、むしろ扱いが男子部員のそれと変わりないと思う。
『流石にどつかれたりはしないけど、馬鹿とか普通に言われるし・・・』
男子バスケのレギュラーの1人である2年生がよく彼に怒られているが、確実にそれと変わらない扱いをされている。
「ただの先輩でしかないのに・・・」
彼女と彼の関係に名前をつけるとしたらそれ以外に何があるというのか。
確かに他の部員よりもずっと一緒にいる時間は長いし、彼女の中で彼・・・笠松幸男という人物は特別な位置には存在していると思う。
男子バスケ部の主将で彼女の才能や名声に戸惑うことなくいきなり怒鳴って勝負を挑んできた相手。
最初の印象はなんだこの偉そうな人はと苛つきがあったが、流されるまま一緒にやった1on1が楽しくて楽しくて・・・気付けば時間を忘れて彼からボールを奪おうと必死になって喰らい付いていた自分がいた。
胸にこみ上げてくる久しぶりの感覚。
それはバスケを始めて間もない頃、バスケを始めるきっかけとなった人物に挑み続けていた時に感じていた高揚感と同じものだった。
とにかく楽しくて仕方なくて、負けても悔しいという感情よりずっともっと強くなりたいと必死になれた時間だった。
中学の時に競いあったチームメイトが誰一人傍に居ない高校生活の中でつまらなさを感じていた彼女に彼が与えてくれたそれら。
いつでも挑戦して来いと言う言葉に甘えて何度も何度も彼に勝負を挑んで・・・負けても引き分けでもいつも終わったあとは充実感に満たされていて楽しかった。
そうしているうちに最初はギスギスしていた女子部員と打ち解けることも出来て、今ではすっかりこの高校に来られて良かったと思うまでに気持ちが変わっていたのは彼がきっかけを作ってくれたからだろう。
そういった意味では彼は彼女にとって特別な位置にいて、尊敬に値する人物であった。
そして夏の大会の敗北から彼女を立ち直らせてくれたのは他でもない、彼の存在があってこそ。
彼の中にも存在する弱音が少しだけ垣間見えた瞬間、差し出された拳に彼女を仲間だと認めてくれたようでとてもとても嬉しかった。
そういった感情を抜きに、あの日、彼のシュートを眺め続けた時間は彼女の中で特別な時間となって鮮やかに蘇る記憶となっている。
だからいくら特別とはいえ、周りがいくら囃し立てたところで彼との間には何も無いというほか無い。
それにドラマや漫画で見るような胸がドキドキしたりぎゅうっと締め付けられるような感覚なんて彼に抱いたことは無かったし、クラスの女子とする恋バナのどれにも当てはまらないからこれは恋ではないのだ。
一緒にいたいとは思う。
エースである自覚ゆえに他の部員には見せられない弱音も彼になら見せることができた。
そしてモデルやバスケ部のエースなど関係なく、後輩としてもプレイヤーとしても彼女と対等に付き合ってくれる彼といることは新鮮で楽しかった。
だから恋人とかになりたい訳ではない。
「でも、一緒にバスケが出来なくなるのは嫌っスかね・・・」
今、彼と一緒にバスケができるのは同じ学校で部活の中だからだ。
でも、それが終わってしまう日が刻一刻と迫ってきていることも知っている。
今、彼と一緒にいることの出来るその枠が彼の引退・・・そして高校を卒業することによって取り払われてしまえば、もうこうやって1on1を挑むことも出来なくなる。
いや、出来なくなりはしないだろうが、それをする為には二人で予定を合わせたり時間を作ったりする必要がある。
その為の労力を割いてまで彼とバスケをしなければならない理由なんてない。
「メアドも知らないし・・・」
思えば彼女は彼の事を何も知らない。
人となりや性格は部活で顔を合わせるからよく知っているが、そういえば部活以外で彼と会ったことなんてあっただろうか?
同じ学校であるので移動教室の際や行事の時にばったり顔を合わせたりして言葉を交わすことはあれど、それらはすべて同じ学校の先輩と後輩という枠の中。
その中から彼が居なくなってしまう日・・・彼の引退した後のことを考えて今、無償に寂しいと思った。
あと何回、彼と一緒にボールを追いかけられるだろうか。
あとどのぐらい、彼と一緒にバスケをしていられる?
いつまで彼の隣にいられるのだろうか・・・
夜にもなればぐっと寒くなり、吐く息は白く目に見えるようになっていた。
冬はもう直ぐそこまで迫っていた。
この関係が終わってしまう日が・・・
何時までも続く明日にはいつか終わりがやってくる。
季節はもうすっかり冬を迎え、先ほどまで火照っていた体も今ではすっかり芯まで冷たくなってしまっていた。
高校最後の試合が終わったのは何時間か前のこと。
けれど無性にこの場から帰りがたくて、ずるずるとこんな時間まで居残ってしまった。
精一杯やったし、達成感もある。
けれど同時に後悔もいっぱいあった。
でも、それを次に生かすことは出来ない。
彼はもう、あのコートの中に立つことは出来ないのだから。
次にこの体育館のコートに立つのは全てを譲ってきた彼の後輩たち。
彼の高校生活の大半をかけたバスケはもう・・・
「・・・終わったな。」
苦楽を共にしてきたチームメイトは主将として今日まで走り抜けてきた彼の心境を察してくれたのか、みんな先に帰ってしまった。
がらんとした体育館。
そこはつい数時間前までたくさんの人で溢れかえり、彼はその真ん中で必死にボールを追いかけていた。
目を閉じればまだ試合が続いているのではないかと思うほど、耳の奥にあの歓声が残っている。
終わりだなんて思いたくない。
けれど、今日この試合が正真正銘最後の試合だった。
明日からは受験生として勉強に励まなければならないと分かっていても、どうしても気持ちの整理がつけられないまま体育館に残ってしまっていた。
「怒られるな・・・」
見上げた時計が示す時間に流石に怒られるかと思い、重たい足を引きずるように体育館を後にする。
一歩、また一歩。
もう帰ると決めたくせに気持ちはやっぱり振り切れていなかったらしい。
高校に入ってバスケ部に入部した日のこと、初めてレギュラーに選ばれた嬉しさと緊張、2年の時パスの失敗で先輩達をインハイに送り出せなかった後悔、主将に任命された時の決意、最後のインターハイをベスト8で敗れた悔しさ、今日の最後の試合。
そして・・・ボールを持って1on1をしようと笑う彼女の姿。
どうして今ここで彼女の姿なんて思い出すのか・・・
彼女が居なくても主将として、選手としてやることは変わりなかったけれど、それでも生き生きとした笑顔でバスケをしていた黄色い髪の彼女は彼の目に鮮烈に焼きついて離れることはなかった。
もう、彼女と一緒にバスケをすることもないのだろう。
だって彼女と彼はただの先輩と後輩で、彼が居なくなってしまえば今までの様に会うことも無くなってしまう。
最後の試合の日まで指折り数えるようになっても彼女とはいつもと同じように1on1をして、いつもと同じ様に別れて家路についた。
それは前日だった昨日も一緒で、最後に何か言っていこうかとも思ったが、上手く言葉が出てこなくて結局何事もなく分かれてしまった。
このまま、部活と一緒に終わってしまうのか・・・引っ掛かりを覚えた時、ちょうど体育館を出たのだが、その目線の先に見慣れた黄色が移った。
「あ、先輩。」
さっきまで思い描いていた人物がひょっこりと彼の前に現れた。
女子部員が今日の試合を応援しに来ると事前に聞いていたから彼女がここに居てもおかしくはなかったが、お前は女だろう今何時だと思ってるんだと少々怒りがこみ上げてきた。
しかし彼が声をかける前にその彼女が彼の方を振り、まずいと言う顔をしたせいで、なんだか怒るのも馬鹿らしくなってしまった。
「お前、何やってんだよ・・・」
「や、帰ろうと思ったんスけど、なんか帰りがたくて・・・」
「なんだよ、それ・・・」
なんだ、彼女も自分と同じではないか。
終わったことが信じられなくて、まだまだ高校生でバスケをしていたいと・・・この体育館を出てしまったらそれが終わってしまうとずるずるとい続けてしまった彼と。
でも彼女は彼とは違ってまだ1年生だからあと2年は高校生でバスケを続けることが出来る。
けれど、そこに彼は居なくて・・・
それが何故か、寂しい。
「終わっちゃいましたねぇ・・・」
「そーだな・・・」
もうほとんど人影の見えない体育館を見ながら彼女がぽつりと零した。
ほう、と白い息を何度も吐き出しながら体育館を見続ける彼女の心境は分からない。
彼女に習って同じ様につい先ほどまで試合の熱気に包まれていた体育館を見つめる彼の心は先ほどとは違い、今は妙に凪いでいた。
バスケが好きだ。
自分がするのも好きだし、人の試合を見ることも好きだ。
終わるのは寂しいけれど、バスケが出来なくなった訳ではない。
大学に入ってもサークルに入ればバスケは出来る。
ただ、今のメンバーと一緒にバスケは出来ないけれど・・・
そして隣に立つ彼女とも・・・
卒業してしまったらこうやって隣に並ぶことの出来ない彼女とは本当に不思議な付き合いだった。
本来なら一緒にバスケをするような間柄ではない。
彼は男子だし彼女は女子で同じチームでプレイすることはないのだが、4月に彼女が高校に上がってきてから今日まで彼女とバスケができて楽しかった。
女子は苦手だけれど彼女だけは別で、彼女は彼の世界の中になんの躊躇いもなくひょっこり入ってきていつの間にかそこに居場所を作ってしまっていた。
バスケが好きだと言っていつも笑っていた彼女はいつの間にか彼の隣にいて、振り向けばそこにいるのが当たり前のようになってしまっていて。
ただ、その手にボールを持っていたり、いる場所がコートの中だったりして、いつも隣にはバスケがあったけれど・・・
彼女ともっと一緒にバスケをしたい。
彼女のバスケを見ていたい。
けれど、それよりもただ一緒にいたいと今、はっきりと思った。
バスケ部の先輩と後輩でなくなっても彼女と一緒に居られる方法。
その答えはすんなり彼のところに落ちてきて・・・
「センパイっあのっ・・・」
「俺、お前のこと好きだわ・・・」
「へ?」
彼女が何か言いだけな事は分かっていたが、さらりと彼の口から言葉になって零れ落ちてしまった。
一瞬、自分でも何を言っているのか分からないぐらいに自然に口をついたその言葉。
まさか彼女にそれを告げるなんて夢にも思わなかったけれど、勢いで言ってしまった後も後悔はなかった。
けれど彼とは逆にいきなり好きだと言われた彼女は大きな目を何度も瞬かせて、困惑を隠しきれない顔で彼の方を見上げていた。
さぁ、彼女はそれにどう答える?
昨日から不思議な気持ちがぐるぐると彼女の頭の中を回り続けている。
正確に言えば、昨日の練習を終えていつもと同じ様に彼と途中まで帰宅した後からである。
昨日で終わりだったのだ、彼と同じコートの中でバスケが出来る日が。
今日は男子バスケ部の最後の試合だった。
泣いても笑っても、どんな結果に終わってしまっても3年生である彼は今日を限りに高校のバスケ部から引退してしまう。
その前の日であった昨日は彼が部活に練習に来る最後の日であった。
最後の日ではあったが、いつも通りの練習を終えて彼は彼女と一緒にボールを追いかけた。
誘ったのはいつも通りに彼女から。
いつも通り、主将の仕事である部誌をつけていた彼を待って、終わったら必死にボールを奪い合った。
その勝負が終わるのはいつもどちらとも無く体力が尽き果てたらで、昨日はほぼ同時に根を上げて勝負は終わった。
勝負は引き分けだった。
暫くスタミナ切れで動けなかったけれど帰るか、と彼が言う声を聞いて二人で体育館を施錠して、着替え終わって合流して校門を出た。
いつも通り。
特別なんて何もないいつも通り。
けれどこれで最後、また明日なんて起こらない、4月から続いた繰り返しの最後の日。
楽しくて、でも寂しくて、こみ上げてくるものはたくさんあった、けれど何を言ったらいいのか分からない。
言った言葉が彼の重荷になって明日の試合に響いてはいけないと思うと開きかけた口が自然と閉じてしまって・・・
『明日見に行くっス。』
『おお。』
言えたのは別れ際にたったそれだけ。
上手く笑えていたかも分からない。
けれど叶うなら、今まで誰よりも努力してきた彼が納得できる結果が出るようにと何度も思った。
それは今日、彼の試合を見守っている時もずっと。
それもずっと前に終わってしまったけれど・・・
試合はだいぶ前に終了し、今体育館にはもう誰も居ない。
でも彼はまだ出てこない。
きっと色々思うところがあるのだろう。
主将として、最後まで先頭に立って常に走り続けてきた彼だから彼女が思っているよりずっと、今日のこの日に残した思い入れは強いのだろう。
そんな彼がまだこの場にいると思うと彼女の足はここから動いてくれなかった。
『あいつのこと、よろしく頼むわ』
と泣いたのだろう赤くなった目元で笑った3年生の先輩が入り口付近でうろうろしていた彼女の姿を見つけるとその肩を叩いて帰っていった。
分かりました、そう頷いて頼まれたものの、なんて言葉を掛けたらいい?
お疲れ様?おめでとう?お世話になりました?・・・どれも何かが違う気がする。
ぐるぐる考え込んでしまうと自分から顔を出すことも出来ず、けれど彼の姿を見ずに帰ることも出来ずずるずると時間が過ぎてゆく。
「って、暗っ!?」
ぼんやりしすぎていたせいか、空がすっかり藍色に染まっていた。
さっきまではちらほら見えた人影は今は一つも見えなくなっている。
彼ももう帰ってしまったかもしれない。
そうだったら自分は1人でかなり馬鹿な事をしていただけではないか、寒い中ぼんやりしていたせいで指の先が寒さでじんじんと痛くなっている。
はぁ・・・と少しでもマシになればと指先に息を吹きかけた時、ちらりと視界の隅に写った人影。
まだ帰っていなかったのか・・・ずっと頭から離れなかったその人が彼女の目の前に現れた。
「あ、先輩。」
「お前、何やってんだよ・・・」
意図して待っていた訳ではないけれど、結果として彼を待っている形になってしまったことに少しバツが悪くなる。
だって、本当に何を言ったらいいか、どんな顔をしたらいいか分からなかったから。
けれど何をしてるのかと言われて黙っていることは出来ない。
「や、帰ろうと思ったんスけど、なんか帰りがたくて・・・」
「なんだよ、それ・・・」
恐る恐る返した答えに返ってきたのが一緒じゃないかと笑う彼。
それにつられて笑ってしまったが、彼の目元は先に帰っていった3年生と同じように赤く擦った後が残っていた。
それがこの人のバスケは終わってしまったのだと伝えてくる。
つん、と自分のことのように目の奥から何か熱いものがこみ上げてきて、それを隠したくて彼の方から目を逸らしてしまった。
けれどまた何も言わずに目を逸らすのもどうかと思って何か言わないとと必死になった口からぽろりと言葉が零れて落ちる。
「終わっちゃいましたねぇ・・・」
「そーだな・・・」
正直、何かの意図があって告げた言葉ではないのだが、彼は律儀に答えを返してくれた。
いやいや、こっちが感傷にふけってしまってどうするというのか。
最後の試合だったのは彼で、彼女はまだ1年生だから来年も再来年もバスケを続けることが出来るではないか。
何を言ってしまったのかと勝手に動いてくれた自分の口を叱ってやりたい。
けれど、あぁ・・・やっぱり何を言えばいいのか分からない。
溢れてくる想いはたくさんあるのに上手く言葉にして彼に届けることの出来る語彙がない。
もっと一緒にバスケをしていたい。
もっと彼のバスケを見ていたい。
彼が引退しても一緒にバスケをして欲しい。
あのコートの中から、自分の前から、彼という存在が消えてしまうのがとてもとても嫌だ。
けれどそれを言う資格が自分にないと知っているからそれを言うことが出来ない。
だって、彼と彼女はただの部活の先輩と後輩で・・・
少し他の人達より近い存在ではあるけれど、それ以上の関係でしかなかった。
それが今、無性に苦しいと初めて感じた。
彼の特別になりたい。
彼に思いの丈を告げることの出来る、彼の特別な存在に。
今までそんな気持ちは無いと思ってきたが、それは全部何処かにいってしまった。
多分、きっと、いや本当に彼女は彼の事が・・・
「センパイっあのっ・・・」
「俺、お前のこと好きだわ・・・」
「え?」
『貴方のことが好きなんです。』その一言は彼からの思いがけない言葉にかき消されてしまった。
勢いがそがれてしまったことと、しかも遮った彼の言葉が夢にも思わなかった内容でもあって彼女の思考はオーバーしてしまった。
さぁ、彼女は彼になんと言葉を返す?
「えっと・・・あの・・・」
言葉は発しているものの、意味を成さない呟きばかりが彼女の口から零れ落ちていく。
それはそうだ、部活の先輩だと思っていた彼からいきなり好きだなんて言われて混乱しない訳が無い。
そう彼は思っているのだが、実際は違っていて。
自分が言おうと思っていた告白をまさか彼からするなんて思っても見なかった彼女はまさかの展開についていけなかったのだ。
一大決意で言おうとしたのにその気持ちを向こうが先に告げてきたから尚更。
「その・・・あぁぁぁぁ・・・」
今まで見たことのないぐらいに取り乱した彼女は真っ赤な顔でおろおろしていて、そんな彼女を見ているとさっきまで感じなかった羞恥が今になって彼の中に湧き上がってきてしまった。
彼の中では自然と出てきた結論だが、正直彼女の気持ちまでは実は考えていなかったのだ。
彼女にとっては部活で仲の良い先輩と思っていた人物からいきなりこんなことを言われて混乱しない方が可笑しいだろう。
しかもそんな空気も良いムードも何も無い中でいきなりだ。
言ってしまってから後悔しても遅いのだが、もっと考えて言えば良かった。
彼女を困らせたい訳ではなかったから尚更・・・
「あのっ、私・・・えっと・・・」
「あー」
彼が自分で撒いた種とはいえ、慌てふためく彼女を見ていたら彼の中で急激に恥ずかしさが湧き上がってきた。
さっきまで寒いと思っていたのに今は顔が沸騰しそうな位に熱が篭っている。
彼女の方もぐるぐる巻きににたマフラーの下から除く首筋や耳まで真っ赤になって、更には大きな瞳に涙まで溜めてうろたえているのを見ると羞恥の他に罪悪感まで沸いてきてしまった。
けれど・・・
「悪い、できれば返事欲しいんだけど・・・」
彼女のあまりの反応にこれは諦めた方がいいのではという気になってきた。
しかし諦めるなら諦めるで、早く返事が欲しい。
言ってしまったことはもう戻せないからさっさとケリをつけてしまいたい。
そうしたらいつもの口うるさい先輩に戻るから・・・というかもう会えなくなってもいいと思う。
それに引退してしまえばもう彼女と会う理由なんてなくなるのだ。
今日この場限りの事だと言って終わってしまえるから・・・
「あ、あの・・・先輩の事、好きですっっ!!」
「へ?」
今度は彼の方が変な声を出してしまう番だった。
彼女の反応を勘違いして最早諦めムードで早く引導を渡して欲しいとすら思っていた時に好きだと言われたのだ。
一瞬、聞き間違いではないか、それかLikeの意味での好きということか、そう思ったのだが・・・
「先輩の一番になりたいんです・・・」
「それは・・・」
どういう意味?なんて聞かないで欲しい。
もう彼の方を見ているだけでいっぱいいっぱいなのだ。
だってこんなことになると思っていなかった。
彼が、彼女のことを好きだというなんて。
「好きなんです・・・」
少しでも彼に思っていることを伝えたくて必死に言葉を紡いだが、もう我慢できなくて両手で顔を覆ってしまう。
彼をこれ以上直視できない。
彼を見て、さっきの言葉が冗談だったなんて言われるのが嫌で。
これは自分の理想が見せた夢だったら覚めて欲しくなくて。
それに顔を見られたくなかった。
涙がもうすぐそこまで出かかってギリギリ堪えている顔なんて絶対に可愛くない。
「ほ、本当か?」
「え!?ちょっと・・・」
顔を隠していた腕に彼の手がかかる。
そのままぐいっと腕を引かれてしまうとバランスを崩して彼の方に倒れ込んでしまった。
ぽふり、倒れこんだ彼の腕の中はバスケ選手としては小柄だが、鍛え抜かれた彼の身体は女子としては大きい方だが彼女1人寄りかかったぐらいではびくともしなくて・・・
『うわ・・・男の人だ・・・』
逞しい彼の身体はほんのり温かくて、寒空の下ですっかり冷えてしまっていた身体を包んでその熱を分け与えてくれる。
頬に当たる彼の肩はがっしりしていて、この肩にバスケ部を背負ってここまで歩いてきたのだと思うとまた目の奥が痛くなった。
そんな彼と今までどうやって彼と接していたのだろうか。
さっきまで普通に話せていたはずなのに一度自覚してしまった意識のせいで、今まで培ってきた関係はがらがらと崩れ去り、言葉を紡ぐこともままならない。
今まで特別な人だという自覚はあったが、まさか本当にそういった意味での特別だと気付いていなかったと知った今、もうどうしたらいいのか考えられないぐらいに緊張している。
それは彼も同じで・・・
『なんだこれ、柔らけぇ・・・』
興奮しすぎて手加減を誤って引っ張ってしまいバランスを崩した彼女を倒れないように抱き止めたのだが、真正面から受け止めた彼女の身体はマシュマロか何かのように柔らかくて甘い香りがした。
簡単に掴めるほど細い腕、さらさらの金色の髪触れた頬が熱を持ってそこから溶けてしまいそうだ。
今まで一緒にボールを追いかけてきてその身体に触れた時もあったというのに、抱きしめた体は酷く柔らかかった。
確かに彼女は特別な存在であるとは思っていたのだが、そう思っていた特別の意味は違ったらしい。
『あいつらの言ってた通りになっちまった・・・』
何度も言われた彼女との関係を勘繰る友人たちを何度も否定した時にそれはお前が自覚していないだけだと言われた声が蘇る。
それに少しむかついたけれど、そんなこと今となってはどうでも良い。
今欲しいものは・・・
「な、さっきの本当か?」
彼女の口から確実な言葉が欲しかった。
「さっきのって・・・」
何が本当かとかさっき言ったことすら頭の中から吹き飛んでしまったのだが、抱き込まれて上手く彼の顔を見上げられない視界から彼の耳が真っ赤に染まっているのを見て色々なものを納得してしまった。
だって彼も自分と同じように真っ赤な顔になっていたから・・・
あぁ、彼と自分は同じ気持ちなのだと今はっきりと理解した。
理解したらさっきまで堪えてきた気持ちが溢れかえってくる。
「好きっス!!
先輩の事、大好きっス!!」
行き場の無かった腕を彼の背中に回してぎゅっと抱きついた。
そうしたらおぉ・・・と頼りない声が返ってきたのに自分で聞いてきたくせにと思うが、彼女が抱きついてもその身体を離さなかった事は女の子が苦手な彼としては最大の好意の現れなのだろう。
そんな彼に特別だと言ってもらえるなんてこれ以上ないほど幸せだと思う。
けれど一度気付いてしまうと貪欲になってしまうもので・・・
「ね、先輩は?」
「は?」
「先輩は、言ってくれないんスか?」
がばり、とさっきまで大人しかった身体を起こして頬をピンク色に染めた彼女が涙で潤んだ瞳で彼を見つめてくるのに彼はうっと言葉を詰まらせる。
何も考えずに好きだと言ってしまったさっきと違い、好きだと自覚してしまった今、この気持ちを言葉にするのは彼にとってはハードルが高すぎる。
けれど彼女の言った言葉の意味が信じられなくて、彼女を問い詰めて好きだと、異性としての好意だと言わせてしまった自分を思うとここで何も言わない訳にはいかなかった。
でもどうしても恥ずかしくて・・・
「嫌いじゃない・・・」
「先輩―?」
つい口からでた言葉は天邪鬼なそれで、聞いた彼女がジト目で睨んでくる。
彼の性格を知った上での彼女の反応とは言え、彼の方が分は悪い。
あぁもう仕方ないな!!と大きく一つため息を吐くと恥ずかしいとか全部飲み込んで彼女の望む言葉を口にする。
「好きだよ。」
たった一言だけだけれど、彼女への思いを全て込めて。
「ハイっ!!」
ニコッと笑って返事をした彼女はもう一度彼の胸に飛び込んで来た。
その笑顔は彼がいつも見ていたあの笑顔だった。
楽しそうに彼をバスケに誘う、あの笑顔。
彼女との関係にはどこまでもバスケが付きまとうらしい。
それが彼と彼女らしいのだと分かった瞬間、二人の間に流れていた空気はすっかりいつもと同じようなものに戻っていた。
「あーもう、緊張したじゃねーか。
なんだったんだよ、さっきの間は!!」
飛びついてきた彼女の身体を抱きしめながら、どれだけ焦ったと思っているのだと彼が大きなため息をつく。
「だ、だって先輩が先に言っちゃうから・・・」
しっかりと抱きついた彼女だってさっきの決意を返して欲しいと怒る。
二人とも負けず嫌いなところがあるが、こんな時までそれを発揮しなくてもいいのにとお互いに思ったのか、どちらともなくクスクスと笑い出す。
しばらくそうやって二人で笑いあっていたのだが、くしゅんっと小さなくしゃみをした彼女はずっと外で彼が出てくるのを待っていたのだ。
抱きしめた身体が随分とひんやりしているのに気が付いて、自分の至らなさと自身の身体を省みなかった彼女に彼が眉間に皺を寄せて彼女を問い詰めてくる。
「お前、どんなけ待ってたんだよ馬鹿。」
馬鹿、と言いながらも女が身体を冷やすんじゃないと言って心配してくれると分かっているから彼女の口元に笑みが浮かぶ。
じゃあ先輩が暖めてください、と言った冗談は真っ赤になった彼に本気で馬鹿と言われたけれど、抱きしめられた腕にぎゅっと力が篭った事で全部許してしまえる。
寒くて、自分の気持ちが分からなくて、どんな顔をして彼に会えばいいか分からなかったけれど、でも・・・
「待ってて・・・よかったっス。」
待っていなかったら今日で終わりだった。
もやもやした気持ちを抱えたまま、でも彼に会う為の理由も無くて、そのまま終わってしまっていただろう。
彼も、ここで彼女が待っていてくれなかったらと思うと、どうしようも無い気持ちでいっぱいになった。
始めて見た時から忘れられない彼女があの笑顔のまま、彼の手が届く所に居てくれるようになったのだから・・・
「・・・ありがとな。」
いつから特別の意味が変わってしまったのかは分からない。
けれどこうやって同じ思いで一緒に居ることが出来るだけでそれでいい。
でもそれ以上に・・・
「ね、先輩。」
「なんだよ。」
「受験勉強の息抜きで良いんで・・・またバスケ付き合って欲しいっス。」
「当たり前だろ。
お前の相手が出来る奴なんて早々居ないからな。」
結局、新しい関係になっても二人からバスケは取ることが出来ないのだとまた二人で笑い合った。
昨日とは少し違う明日になるけれど、その隣に彼が・・・彼女が居てくれる。
初めて手をつないで帰った道のりが明日も明後日もずっと、ずっと続いていってくれるように。
おまけ
「おーい、今日もバスケすんだろ?」
「先輩っ!?
当たり前っスよ!!今日こそリベンジするっスからね!!」
ひょこり、先日引退したばかりの男子バスケ部元主将が体育館に顔をのぞかせた。
それを目ざとく見つけた女子バスケ部のエースは喜び勇んで彼の元まで駆けて来る。
二人のその様子に他の部員はため息をつくしかない。
元主将は受験生のはずなのだが、毎日バスケ部が練習を終わった頃を見計らって体育館に顔を出すのだ。
本人曰く体育館に来るまでの間は図書館で真剣に受験勉強していると言うことなのだが、毎日の様に体育館にやってきては練習の終わった彼女を捕まえてバスケをして帰るのだから、見ている方が大丈夫なのかと不安になってしまう。
まぁ引退する直前までバスケ一筋で打ち込んでいたのにいきなり受験勉強をしろ、と言うのも無理な話なのだが、それにしたって顔を出しすぎではないだろうか。
しかし問題の彼とバスケをしている彼女の方も先輩の進路の心配をするよりも一緒にバスケを出来るほうが嬉しいらしく、彼が来るたびに飼い主を見つけた大のように彼にまとわり付いているからもう誰も何も言うことが出来なかった。
WCカップを最後に終わると思っていた彼と彼女の関係はどうやらまだ続いているらしい。
前と変わらずに二人は部員が全員帰ってしまった後にも関らず、気の済むまで1on1をしてから帰っていく様子を見てこのバスケ馬鹿どもが、と全員が思った。
けれど主力であった3年生が引退してしまった後の不安なバスケ部に前と変わらない光景があることで全員がほっとしているところもあるのだが・・・
「あの二人、変わらないなぁ・・・」
秋口ぐらいまでは二人の関係を先輩後輩以上のものではないかと勘繰っていた部員たちではあるが、今ではすっかり二人は二人の関係があるのだろうと深読みを諦めていた。
どうやらお互い鈍感らしいというのが二人をよく知る元スタメンの一人の言葉だ。
「本当になぁ・・・」
バスケ馬鹿の二人にはそれ相応の付き合い方があるのだろう。
きっとこの光景は彼の大学が決まって、彼の卒業まで見られることになるようだ。
こうなったらもうなるようになれば良い、と傍観者に徹していた部員たちであった。
しかし後日、二人が手を繋いで帰っているところを目撃したという生徒が出てきてバスケ部は騒然となる。
あの二人が!?と信じられない思いで問い詰めた所、今まで一度も恋人関係を肯定したことのなかった二人があっさり交際を認めてしまったこともあり、しばらくバスケ部の一番の話題がそのことになったのは言うまでもない。
「そうだよ、気付いたら好きだったんだよ!!」
と怒鳴るように顔を真っ赤にしながらもはっきり告げる彼と、
「先輩?大好きですよ?」
今までにないぐらいに満面の笑みで告げる彼女にずっと気を揉んでいた部員達はもう好きにすればいいと、今日も部活上がりにやってくる彼とバスケットボールを持って彼の元まで駆けて行く彼女を見送ったのだった。