今年も春がやってくる。
学生は卒業式を向かえ、そして新たな場所へと旅立っていく季節。
彼が彼女と出会って何度目かの桜の季節。
そんな今年の春は彼女にとって特別な年であった。
彼が母校である海常高校に教諭として就職してから早2年を過ぎ、今年で3年目に入ろうとしてた。
日々の受け持った教科授業の他に高校時代に所属していたバスケ部で当時の監督に師事しながらコーチのような仕事もやらせて貰っている為、めまぐるしく日々が過ぎていった。
教師としても顧問としてもまだまだ半人前で課題は多いものの、この就職難の時代にきちんと就職できた上、恋人とも仲が良く付き合いが続いているという彼の人生は誰が見てもとても充実していると言っていいものだった。
しかも高校卒業も間近から付き合い出した彼女は二歳年下のバスケ部の後輩で、しかも幼い頃からモデルをしているスタイルの良い美人ときたものだから高校・大学時代の友人は誰もが彼を羨んでよくからかわれたことを思い出す。
彼も彼女の横に自分がいていいのかと思ったことは何度もあるが、忙しい合間を縫って会う彼女はいつも嬉しそうに彼に抱きついてくるからやっぱり彼女が良いと同じ数だけ思ったものだ。
『大学出たら本格的にモデル活動しないかって事務所の社長に言われました・・・』
そんな彼女が大学4年の秋頃、いつものように彼が大学を出てから1人暮らしをしているアパートにやってきた際に珍しく真面目な顔で正座までして彼にそう告げてくるものだから少し驚いたものだ。
思わず彼も正座をしてその話を聞いてしまったのだが・・・
『そっか、でも無理はすんなよ?』
『へ?』
正直なんだそんな話か、と思ってしまった彼と裏腹に彼女はファッション雑誌の読者には見せられないぐらいのぽかんとした呆れ顔で彼をじっと見つめてきた。
曰く、嫌じゃないのか?という事だそうだ。
確かに不特定多数の誰かに彼女を見せるのは好ましくないと言えば好ましくないけれど、彼女を独占して閉じ込めてしまいと思うほど狭量ではないつもりでいる。
彼が彼女と出会った頃には既に彼女はモデルとして一定の地位と人気を築いていたから、彼にとってはそれを含めての彼女に好意をもったのだから今更と言ってしまえば今更の話でもあったということも関係していただろう。
それにモデルの仕事は中学時代からずっと・・・高校でバスケに打ち込んでいた時も受ける仕事の量を少なくはすれど、辞めることなく彼女が続けてきた立派な仕事だ。
決して少なくないファンも彼女を応援しているだろうし、彼女にとってやりがいのある仕事なのだろう。
彼の我侭でそれを辞めろと言うことなどできるはずもなく、彼女がそうしたいというならその通りにすればいい、自分はそれを応援するだけだと言って彼女の背中を押した。
『センパイは優しすぎっス』
『別に優しくなんてねーよ。』
意を決して聞いたことをあっさり返された彼女はもう・・・と言いつつもはにかむような穏やかな表情に戻って猫みたいに甘えて彼の腕に擦り寄ってくる。
ぽふり、と腕の中にすっぽりと収まった身体は温かくて落ち着く温もり。
高校時代に所属していたバスケ部の最後の試合の日に告白して恋人同士になる以前から7年近く一緒にいる彼女は社会人となっても未だに女性と喋るのが苦手な彼が唯一普通に接することが出来る女性で、一緒にいることが苦にならない稀有な存在だ。
多分これから先、自分には彼女以外にはいないだろうとも思えるぐらいの好意を彼女に抱いている自覚もある。
高校の頃のようにいつでも一緒にいることは出来ないし、お互いに忙しくて他の恋人よりはずっと一緒にいる時間が短いのだとしても、これからもずっとこうやって彼女が笑って横にいてくれたらそれでいいと思っていた。
そう、その時はそう思っていたのだけれど・・・
彼女にその相談を受けた約半年後、無事に大学を卒業できることになった彼女は本格的にモデルとして活動を始めるようになった。
タレントのようにテレビ出演のある仕事はないものの、雑誌やファッションショーなどの方で人気が出ているとネットのニュースなどでよく目にするようになるのは早かったように思う。
元々人気があったのだから、モデル業に専念するようになって露出の機会が増えてくればそうなるのも必然だったのだろう。
今までは学生の時間割の都合なとでスケジュールが取れなかったという理由で出演機会の無かった海外のショーにも参加が決まったのだと報告してきたメールに、海外はくれぐれも気をつけて歩くようにといった旨のメールを返したのはいつのことだったか・・・
受信ボックスに残ったそのメールは1週間以上前の日付を示しており、それっきり彼の携帯に届く彼女からのメールは途絶えていた。
「なんでなにも連絡寄越さねーんだよ・・・」
恋人と言う関係になるより前からずっと誰が言ったのか、忠犬というぐらいに彼の回りにまとわり付いてその言動に一喜一憂していた彼女は今起きただの、今日のお昼は何食べただの、今から友達と買い物に行ってくるだの、今から寝ますだのと一日何通メールを送ってくるんだというぐらいにメールを送ってくる。
そんな彼女からのメールがぱたりと途絶えてもう1週間以上だ。
最初は本格的に開始したモデル活動が忙しくなってきてメールを送る暇もないのだろうと思ったことと、彼も新学期を迎えた学校の仕事が忙しく、更には元々メールがマメな方では無かったからそのままにしておいたのだが、どうも様子が可笑しい。
そろそろこちらからメールを送るかと思いかけた頃、高校時代から彼と彼女の関係を知る旧友が慌てた様子で持ってきた週刊誌に彼女のが映っていたのには驚いた。
彼女が俳優の誰それと熱愛発覚!?という見出しと隠し撮りだろう写真を載せて・・・
「なんだよこれ!!」
内容はまぁよくある芸能人の誰それに恋人が!というそれだが、その一方がまさかの自分の恋人なのであるから驚かない方が無理というものだろう。
友人曰く、2、3日前からスポーツ誌にも載っていたということらしいのだが、元々芸能界などのそういう情報に興味のない彼は多分気付いていないだろうと教えに来てくれたようだ。
それに感謝すべきなのかはいまいち微妙な心境だけれど、とりあえず彼を心配して時間を割いて教えに来てくれた友人にはありがとうと言っておいたが、どうにも腑に落ちない。
友人はそんな彼に苦笑とまぁ間違いだろ?と励ましの言葉を掛けて明日も仕事だからと言ってさっさと帰っていってしまった。
お互い社会人となって短くは無いので忙しさは理解できるから、彼も友人を引き止めることはせずにその背を見送った。
友人が帰った部屋で1人になって一旦落ち着いて情報を纏めようとしたものの、その友人が持ってきた女性誌に正直な所目を通すことにためらいがあった。
どう考えても彼にとっては気分の良いものであるはずも無いそれに対してそう思ってしまうのも仕方の無い事だが、しかし自分の恋人のことなのできちんと状況を知らないままでいることも出来ないと覚悟を決めて友人の手でご丁寧に折り目をつけられたページを覚悟を決めて開く。
そこには先ほど見せられた彼女と誰とも知らない男が写った写真、そしてその二人の簡単なプロフィールと写真撮影に成功した経緯などが書かれていた。
その内容だが、彼が雑誌を破らなかったことを褒めてやりたいぐらいのモノで、彼女と長年付き合ってきている彼にとっては屈辱的としか言い様がない。
『何がお似合いだ!!』
確かにモデルで更にバスケ選手として活躍していた彼女は女子としては身長もあり、顔もスタイルも抜群だ。
それで彼女を好きになった訳ではないけれど、誰もが目に留めるような外見の彼女の隣に並ぶとどうしてもプライドがちくちく刺されるのである。
彼も日本人男子の平均から見れば身長は高い方ではあるし、長年バスケをやってきただけあって同じぐらいの身長の男子よりはずっと体格も良く、顔の作りも少し目は大きいけれど悪くは無い。
しかしどうしたってこの写真に写るなんとかいう俳優に比べると華が無いし背も足りない。
俳優の顔の醜美に興味はないが、マンションのエントランスらしき場所で見詰め合う二人の写真を見ても彼女より20センチは高いだろう身長に苛立ちが募る。
バスケを始めて以来ずっと背の高さという悩みの種が尽きなかったせいもあっての僻みも入っているのだと分かってはいるのだけれど、この俳優の背中を蹴り飛ばしてやりたいぐらいの心境だ。
まぁその多少個人的な恨みの入った感想は暫く置いておいて、これまでモデルである彼女と付き合っているということで色々なことに気を使っていたというのに思いもよらなかった所で問題がでてきたものだ。
モデルの家に異性が出入りしているなんて噂を立てられないようにするために彼は近くまで彼女を送るがそこに足を踏み入れた事がなかった。
彼女はそこまでしなくても良いとは言ったけれど、彼の存在で彼女が例え少しでも誹謗中傷される事など耐えられないと付き合ってから今までずっと気を使い続けてきたのだ。
けれど噂は立ってしまった。
しかも・・・
「俺以外の奴とか・・・」
どこの誰が流したデマか知らないが、随分舐めたまねをしてくれたものだ。
今までの苦労とかそんなことはどうでもいいことだと思えるが、彼女が他の誰かと付き合っているなんて言われて怒らない訳ないではないか。
彼女の恋人は誰でもない、自分なのだ。
狭量ではないと思っていた自分がこんなにも彼女のことを想うようになっていたなんて自分でもびっくりだが、腹の立つものは立つ。
彼女のことは信頼しているから浮気ではないと信じてはいるが、勝手なことを書きまくってくれたこの週刊誌には苛立ちが募る。
そして彼女の異変に気がついていたものの忙しさにかこつけて彼女を後回しにしてしまっていた彼自身に一番怒りがこみ上げてきて、自分で自分を殴ってやりたいぐらいだった。
多分、彼女の事だから一般人でしかも教員という難しい職業である彼に迷惑が掛からないようにとの配慮で連絡を絶っているのだと思うが、彼女は昔から気を使う所がおかしいのだ。
彼女のそんな性格を分かっていながら今回の騒動に気がつかなかったのだからやはり自分に腹が立ってしかない。
相変わらず何も連絡の来ない携帯を見て彼女のアドレスを呼び出し、メールの作成画面を開くがはやる気持ちに反して指先は上手く動いてくれなくて・・・
「あぁもう、苛々する。」
何も書いていないメールを廃棄し、財布と携帯と家の鍵だけを引っつかんで彼は家を飛び出した。
目的地は彼女が1人暮らしをしてくるマンション。
このまま彼女からの連絡を待っていても埒が明かない、仕事帰りの彼女を捕まえて洗いざらい全部喋って貰おうか。
街頭だけが照らす道を全速力で走っていった。
いくつかの路線を乗り継いでたどり着いた彼女の住まいのあるマンション。
何度、彼の家から帰る彼女をこのマンションの入り口近くまで送ってきたことか・・・
入り口まで入ったことがなかったのはさっきのマスコミ対策であったが、もうそんな事はどうでもよくなったのでエントランス前まで来たのだが、しかしここにたどり着いてはたと気付く。
何度かチャイムを鳴らしてみたのだが、一向に彼女がインターフォンに出る気配が無い。
部屋に帰っていないのか、それか記者などに部屋を知られてしまっていて居留守を使っているのか・・・居留守よりは彼女が家に居ない可能性の方が高いと思うのだが、雑誌の話を問いただそうにも会えないならここに来た意味は無い。
頭に血が上っていて当たり前のことをすっかり失念してしまっていた。
彼の家の合鍵を彼女は持っているが、彼が彼女の家に入ったことはなかったので合鍵なんて持っていない。
つまり彼女が帰って来るまでこのエントランスで待っているしか道は無いが、決まった時間に帰ってくるような仕事をしないない上、もしかすると泊りがけの撮影に出ていて帰ってこないかもしれない可能性もある。
連絡しても取ってくれるかどうか分からなかったが、やっぱり電話でもして確認してからくればよかったか?そう少し後悔していたその時・・・
「センパイ!!
なんで此処に・・・」
久しく聞いていない彼女の声が耳に届いたのは。
「なんでって・・・お前を待ってた以外になにがあんだよ?」
何度も聞いた間違える筈のないその声に彼女だと気が付き声の聞こえた方を振り返ってみたのだが、思わずぶっと笑いを噴出してしまったのは許されるだろう。
だってそこにはもう春ももうすぐ終わろうかというのに目深に帽子を被り、顔の下半分に掛かるぐらいまで厚手のストールをぐるぐる巻きにして、更には大きめのサングラスをかけている女性がいたのだから。
顔を隠すためにやっているのだとは理解するが、これでは逆に目立っており何処から見ても不審人物にしか見えない。
そんな彼女を見てしまったものだから今までの苛立ちを全て忘れて思わずいつもの調子でお前、馬鹿だろ・・・なんて呆れ声をかけてしまった。
「馬鹿って酷いっス!?
でも・・・だってこっちに来るなんて・・・」
連絡なかった・・・と消えそうな声がストールの向こうから聞こえた。
表情は隠れて見えないけれど、きっとその長いまつ毛に縁取られた大きな瞳は大きく見開かれていることだろう。
彼女の声のトーンや伝わってくる様子、電話口で顔が見えない時だって彼女の表情を思い描けるぐらい彼女とは長い付き合いなのだ。
だからきっと・・・
「言ったらお前、どうしてたよ?」
長年の付き合いから予想するに、彼にまで迷惑を掛けるわけにはいかないから絶対に来るなといって逃げたに違いない。
最悪、電話を取っても貰えなかっただろう。
だったらもう、直接来て彼女を捕まえるしかないじゃないか。
正直、自分も唐突な行動だったし失敗したらという予測を失念していた部分はあるが、プライドと演出の為にそこはあえて隠して不適な笑みを浮かべて彼女を見やる。
さて、どういった反応を返すかと内心では少しはらはらしながら彼女の反応を待ったのだが・・・
「だって、センパイに迷惑かかると思って・・・」
やはり彼の推測はほぼ当たっていたようだ。
その気遣いを自分に向けてくれることは嬉しいことだが、しかし週刊誌などに載ってしまった以上、遅かれ早かれ彼にバレてこのことを問い詰められるだろうに・・・
変に気を回すからこんなことになるのだと学習しろと妙に穏やかな気持ちで彼女が呆然と立っている所まで距離を詰める。
「お前、やっぱり馬鹿だよ・・・」
「だから、馬鹿じゃないっス!!」
いや、絶対に馬鹿だ。
確信してもう一度言ってやると同時に帽子とサングラスを取り上げて、ストールでぐるぐる巻きの彼女を腕の中に閉じ込めた。
帽子に隠されていた金色の髪がエントランスの照明でキラキラ輝きながら落ちてゆく。
「ちょ、センパイ・・・」
「迷惑ならずっと前からかけられてんだよ馬鹿・・・」
思えば高校の頃からずっと彼女の存在には振り回されてきているのだ。
バスケ部のひねくれた後輩で上級生と喧嘩寸前でやりあうぐらいに気の強い女子かと思いきや、そこに怒鳴り込んだ彼にいつの間にか彼女が懐いてしまっていた時は何かしたか?と思ったことは一度や二度ではない。
ただ、面白く無さそうに不貞腐れている顔よりは笑っている方が良いと思ったけれど・・・
その後、結局どうしてそうなったか全く分からないまま彼女は疲れているとか男女の体格差などまったく考えずにバスケをしよう、1on1をしようとせがんで彼に纏わり付くようになった。
更にそれは部活意外の時間にまで及ぶようになり、校舎内でも彼を見かけたら今日の部活の後もバスケをして欲しいと言って嬉しそうに近寄ってくるせいで、どれだけの人間に付き合ってきるかと勘繰られて問い詰められたことか・・・
しかしいつの間にか彼の中で特別な位置をキープしてしまっていた彼女はモデルをやるぐらいに美人でスタイルも良くて・・・正直、バスケ馬鹿で女性が苦手な彼にとっては一生縁のないような相手だったのに、今ではすっかり横に居ることが当たり前になってしまった。
一週間も連絡が来ないだけで不安になってしまうぐらいに。
「ほんと、手の掛かる馬鹿だよお前は・・・」
懐いてくる割にはちょっと捻くれていて負けず嫌いで変な所で気を使う。
彼も負けず嫌いな性格だったために喧嘩や言い争いは2度や3度では済まないぐらいにしてきた。
けれど・・・
「馬鹿じゃ・・・ない・・・」
ぶすっとした声だが、彼の背中に回した腕がぎゅうぎゅうと力を込めているしぐりぐりと顔を胸元に押し付けてくるから彼女もきっと寂しかったのだろう。
その抱きつき方が恋人同士というより親に抱きついてくる不貞腐れた子供のように見えるが、そこまで彼に甘えて寂しいと言ってくれているようで嬉しいなどと思ってしまって彼も彼女の身体をぎゅうぎゅうと抱きしめ返す。
隠し撮りでもなんでも撮るなら撮れば良い、そもそも宙ぶらりんのままでいるからこんな報道をされてしまうのだ。
ならさっさと彼女は自分の物だといえる関係になってしまえばいいと思った時にはもう彼の唇は言葉を紡いでいた。
「結婚するぞ。」
「・・・・・・は?」
その言葉に返ってきたのは結構長い沈黙と、気の抜けた声。
しかもその響きが歓喜よりも呆れに近いそれだった為に、なんだよ人が意を決して言ったのにと彼の機嫌が悪くなってしまった。
「なんだよ、嫌かよ?」
ムスっとしてしまうのは彼女も喜んで了承してくれるかもしれないと心の中で期待していたからだ。
久しぶりに会えた彼に寂しかったというようにすがり付いてくるのだから好かれていない訳がないと思う。
しかしべりっと抱きつかれて抱きしめていた身体を引き離して彼女の顔を覗き込むと声と同じ呆れ顔がそこにあって、ついつい喧嘩腰で言い返してしまった。
「嫌とは言って無いっス!!
だってセンパイいつも唐突なんですよ、こっちの気持ちの準備とかも考えて欲しいっス!!」
高校のWCの時だって・・・と顔を真っ赤にして不満を次々にぶつけてくる彼女にそういえば高校最後の試合の日に彼女に好きだと告げた日もこんな感じだったなぁと思い出した。
あの時も確かぽかん、とした顔で彼を見上げていた彼女が居たように思う。
だってどうしようも無くそう思ったのだから仕方ないしあの選択は間違っていなかったと自身を持っていえるのだが・・・
「あの時だって私が言おうとしてたのに先輩が先に・・・」
彼女はその時の事を思い出しているようでぶちぶちと文句を言っているが、確かに勢いはあったのは否定しないがこんなこと軽い気持ちで言えるはずなどないだろうに。
高校の時も今日のさっきのプロポーズもそこまで彼女に対して真剣に思っている気持ちがそれを言わせたのだから、あまり文句を言われるのは嬉しいものではない。
勢いで言ったとはいえ緊張していないわけでもないのでさっさと答えを返して欲しい。
できれば好意的な方を。
「で、いいのかよ?嫌なの・・・」
「良いに決まってんでしょ!!
センパイの馬鹿!!アホ!!」
「誰が馬鹿でアホだよ。」
「センパイっス。
ついでに女の子の気持ちも分かってないっス・・・」
泣いているのだろう、鼻をすする音とくぐもった声が彼の肩に顔をうずめた彼女の口から聞こえてくる。
確かにプロポーズに適したロマンチックなレストランも夜景も何も良い感じの雰囲気も無いただのマンションのエントランス。
さらに花束も指輪も無いという結婚に夢を見ているらしい女子にとっては最悪に近いロケーション。
確かに彼女には悪いなぁと思わなくもないけれど、ぼろぼろ涙を零しながら抱きついてきた彼女が腕の中から離れようとしないあたりが嬉しいと思ってしまうからまぁいいやなんて思ってしまった。
それに大多数の女子よりも彼女1人が居ればいいと思うから・・・
「お前の気持ちだけ分かれば別にいーんだよ。」
「・・・バカ。」
そう言って涙としゃくりあげる声で何も言えなくなった彼女の身体をもう一度、抱き締める。
彼の肩に顔をうずめてしまう前に一瞬だけ見えた笑顔は涙で溢れていてすっかり大人になって綺麗になっていたけれど、彼が初めて彼女を見た日からずっと好ましいと思ったキラキラした笑顔とやっぱり同じで・・・
これからもずっとこの腕の中で、彼の隣でその笑顔をみせて欲しいと瞼に、目じりに、優しく落とした唇をそっと下にずらした。
その後の彼と彼女
実はそのプロポーズの直後、そのままの勢いで閉店間際のデパートに駆け込んで婚約指輪を購入したのだが、その指輪を見ていてやはりこんな筈ではなかったと彼の中で後悔が膨らんできた。
まだ就職してから3年目の教員の給料ではそれほど良い指輪を贈れなかった為に格好が付かないと思ってしまったからだ。
それに彼女にあんなことを言ってしまった後になんだが、やはり指輪は先に用意しておいてお互いが良い雰囲気になった時にプロポーズした方が良かったのかも知れない。
ぼんやりといつかは彼女と結婚するんだろうなぁと思ってはいたのだが、高校生の告白はともかく一生もののプロポーズをこんな勢いでしてしまっても良かったのか?
社会人とは言え、その立場はまだまだ不安定な若造が人一人の一生を縛ってしまってもいいのかという思いもあったが、買い物中ずっと彼の腕に上機嫌でくっついていた彼女を見たらまぁいいか、と思ってしまったのだけれど・・・
しかしそれより大きな問題が勝手に結婚します!なんて二人で決めてしまって彼女の事務所は大丈夫かと思ったのだけれど、そちらは案外早くけりがついてしまって彼のほうがびっくりするぐらいであった。
彼女の熱愛報道に困り果てていたらしい事務所の社長がこれ幸いと早々に彼女が結婚すると発表してくれたのだ。
大丈夫なのか心配になったが、相手は一般人と言われてしまえばマスコミはそれ以上彼女の回りを嗅ぎ回る事ができなくなるので、手を引くしかないので逆にありがたいなんて言われてしまいそのあたりの線引きはきちんとしているようで一安心だ。
事務所にいた人全員から結婚のお祝いの言葉まで頂いてしまった帰り道。
「お前、大切にされてるんだな・・・」
「みんな、ちっちゃい頃から知ってますんで・・・」
そう聞くとそんなに大きくない事務所の人間はみんな親戚みたいなもんです、と言って笑った彼女の笑顔はキラキラと輝いていて、あぁ、やっぱりこの笑顔に引かれたのだと改めて確信してむずがゆい気持ちになったものだ。
さて、事務所以上の難関、親へのご挨拶なのだがこれが事務所以上に簡単に終わってしまった。
双方の両親はあっさり結婚を承諾してしまって、何か言われるのではと思った彼にとっては肩透かしも良いところだ。
特に彼の両親なんかは、女子が苦手だと言っていた息子が連れてきた嫁の方を心配し、本当に彼でいいのかと問いただす始末。
けれど彼女は考えるそぶりなど全く見せずに彼がいいのだと笑うからまたもむずがゆい気持ちになる。
そんなこんなで後日、小さなダイヤモンドと彼女の誕生石であるパールがついた細身の婚約指輪を身につけた写真を結婚の報告と共に自身のブログのトップページを飾った。
それを見て満面の笑みで浮かべていて幸せそうだとあの時、週刊誌を持ってきた友人に冷やかされたりもしたが今回ばかりは甘んじて受けることにする。
でないと彼は彼女の異変に気が付かないままでいたかも知れないのだから、恥ずかしさで手が出そうな所をぐっと堪えた。
その友人以外にもからかい半分、祝福半分のメールや電話を毎日のように受け取らなければならなかったのでいちいち怒る気力が出なかったせいもあるが・・・
そんな彼以上に騒がしい彼女は結婚してからの方が仕事の幅が増えたようでブログでの発表から2日後にはもう結婚情報誌のモデルの仕事が舞い込み、あの熱愛報道が嘘のようにモデル黄瀬涼子は再び華々しい舞台に舞い戻ってしまった。
正直、彼としてはあまり騒がれるようならばこれを期にモデルを引退させても良いとまで思っていたのだが、彼女が家の中で大人しくしているような性格ではないと長い付き合いで理解していたし、この不景気のご時世、自分1人の収入で彼女を・・・そしていつかは生まれてくるだろう子供を養っていく上で十分に事足りるのかと考えれば簡単に仕事を辞めてしまえと彼女には言えなかったのだ。
しかし彼女が数回仕事を受けただけで彼の一月の収入を軽く超えてしまった時は男として少し自信をなくしてしまったものだが・・・
そんな感じでお互い忙しい中、彼女の事務所が斡旋してくれた3LDKのマンションに引越しが終わって一緒に暮らし始めた頃に彼女がいる世界はおそろしいと再び思い知ることとなる。
「センパイ、センパイ。
結婚式はハワイでやりませんか?」
「・・・は?」
社会人になってこつこつと貯金はしていたが、ハワイなんかに行ける金がどこにある?
それを口に出しはしなかったが、軽くハワイで結婚式だなんていう彼女に思わず眉間に皺を寄せて睨みつけてしまった。
そんな彼の表情の変化にいったん引き下がった彼女だが、おずおずと口を開いてそっとパンフレットまで渡してくる。
「いや、社長が今度の撮影がハワイになったからついでに旦那も連れて行って式も挙げて新婚旅行も行ってきたらいいって・・・」
しかも結婚祝いと称して彼の分の航空券と宿泊のホテルまでつけてくれているというのだからどれだけ甘やかされているんだと驚きを通り越して関心してしまった。
もうこうなったらお言葉に甘えてしまおうか、分かっているつもりでわかっていなかった彼女のいる世界に頼ることにする。
心配は彼の仕事の休みだが、彼女が彼の学校が夏休みかつ顧問のバスケ部のインターハイも終わってからの間に予定を調整してくれたらしく、そちらはまぁ何とかなるだろう。
ドレスの方もモデルを始めた頃からの付き合いだというデザイナーが彼女をイメージして特注で作ってくれたというカラードレスまで貰ってきてしまったから驚くしかない。
曰く、お色直しの時に着ればいいと言われた結婚祝いのその品は鮮やかなカナリアイエローのドレスで一彼女によく似合っていた。
そんなものをぽん、とプレゼントしてしまうなんて本当に芸能界は恐ろしいと思いつつ、急遽決まった結婚式と新婚旅行と引越しの準備で忙殺された彼の社会人3年目のスタートは気がつけば秋を迎えていた。
誰かが結婚なんて勢いがないと出来ないと言っていたが、これは勢いがつき過ぎだろうに・・・
あの日のプロポーズからこっち、一気に忙しくなったせいで彼女とようやく休みの予定が重なった日に婚姻届を出しに行けたのがハワイの結婚式と新婚旅行から帰ってきた後になるなんて思いもしなかったのだから。
ついさっき二人揃って婚姻届を提出して、晴れて彼女の苗字が変わってきた所である。
今日はこのまま友人達が開いてくれる結婚パーティに行く予定なのだが、女子が苦手で有名だった彼の結婚が一番早かった上にこんな話のネタになるインパクトだらけのプロポーズだったなんて知る友人達だ・・・一体どれだけの人間にからかわれるのか分かったものではない。
けれど・・・
「へへ・・・」
「おい、だらけた顔してんぞモデルさんよ・・・」
これでもか!というほど目じりを下げた彼女は世の女性達が見本にしているようなファッション雑誌の表紙を飾っているモデルとはとても思えない顔をしていた。
今日は朝からずっとこんな顔をしていたのだが、いい加減放置しておくのも彼女の評判に関ったら大変だろうと突っ込みを入れてみたのだが・・・
「だって、やっと苗字が変わったんですもん。
今日から気兼ねなく笠松って名乗れるっス。」
堂々も何も一緒に暮らし始めた時から家に掛かってきた電話は笠松と言って取っていたので正直今更な気もするのだが、照れているのか嬉しいのか、さっき変わったばかりの苗字を口にする彼女はへにゃりと笑って役所の門をスキップをしだしそうな弾んだ足取りで通り過ぎる。
モデル活動の方は彼女の名前がそこそこ世間に浸透しているのと彼が一般人なこともあってこれからも旧姓で通すらしいので、普通の新婚女性より名乗る機会は少ないだろう夫と同じ苗字は色々感慨深いのかもしれない。
彼も彼で色々思う所はあるのだが、恥ずかしいので黙っているけれど。
「ま、これからもよろしくな、奥さん?」
「・・・はい!!」
ちょっとかっこつけて彼からはめったに繋がない手を繋いでみたものの、恥ずかしさで顔を背ける彼とそんな夫に仕方ないと思いつつも嬉しさは隠し切れない様子だ。
彼女の左手薬指につけた婚約指輪と新たに増えた彼とお揃いの結婚指輪を目の前まで掲げて、キラキラした満面の笑みで微笑む彼女を見ながら彼も唇に笑みを浮かべた。
次は彼女が第一子を懐妊したと言う報告をブログのトップに載せたことで再び周囲は忙しくなる。
今度は有名ななんとかクラブの表紙を飾ることになった彼女はファッション誌からブライダル雑誌、遂にマタニティー雑誌の表紙までを一気に飾ったモデルとして更に話題の人となるのだが、それはまた少し後の話。